FC2ブログ
歴史と法律についておべんきょうしたことをメモします。頻繁に記事は書き換えをしてます。
2018年07月13日 (金) | 編集 |
 今回は、「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~ 」と「原発=日本原発の歴史 - 気がつけば原発大国」より、日本の原発の歴史をまとめます。

1、問題設定

 ・昭和20年(1945)8月、広島と長崎に原爆が投下された。そして、敗戦国日本はGHQにより原子力研究が放棄させられた。それからわずか10年後、日本は原子力推進を国策として、全国各地に原子力発電所を建設してきた。なぜ、被爆国で、さらに世界有数の地震国でもある日本は、原発大国となったのか。

2、Atoms for Peace演説

 (1)、意義

  ・昭和28年(1953)12月、アメリカのアイゼンハワー大統領がニューヨークの国際連合総会で行った演説。

 (2)、内容

   「私は提案したい。原子力技術を持つ各国政府は、蓄えている天然ウラン、濃縮ウランなどの核物質を国際原子力機関(IAEA)をつくり、そこに預けよう。そしてこの機関は、核物質を平和目的のために各国共同で使う方法を考えていくことにする。」

 (3)、評価

  ・ウラン鉱石の中に含まれるウラン235の濃度をあげた濃縮ウランが核兵器に使われる。アメリカの提案は、核兵器用に作られた濃縮ウランを、原発など民間に転用することにより、軍縮をすすめようというものであった。原子力の平和利用を呼び掛けたこの提案は、画期的な核軍縮提案とみられた。

 (4)、アメリカの二枚舌

  ①、国家安全保障会議

   ・アメリカは、Atoms for Peace演説の5日前に国家安全保障会議を開き、NATOなどの同盟国にアメリカの核兵器を配備しようとする計画を立てた。平和利用を呼び掛ける一方で、西側諸国の核武装も進めていた。

  ②、ソ連の批判

   ・ソ連のフルシチョフ書記長はアメリカの二枚舌を批判して、原水爆の無条件禁止を世界に訴えた。

3、第五福竜丸事件

 (1)、意義

  ・Atoms for Peace演説からわずか三か月後の昭和29年(1954)3月、アメリカはビキニ環礁で秘密裏に水爆ブラボーの実験が行われた。この実験の「死の灰」が、近くで操業中であった第五福竜丸の乗組員23人に降り注ぎ、被爆をした。これによって、秘密だったはずのアメリカの水爆実験は、全世界に知れ渡った。

 (2)、反米・反核世論の高まり

  ・ビキニ近海でとれたマグロから放射能が検出されはじめた。食料品の汚染は国民の不安を掻き立て、アメリカの核実験に対する反発が強まった。さらに雨からも微量の放射能が検出され、野菜や牛乳などにも汚染の疑いが起こり、放射能パニックが広がっていった。日本人はアメリカの原子力の平和利用計画に、疑いを強めていった。

4、原子力平和利用使節団の計画

 (1)、意義

  ・第五福竜丸事件以後、日本では反米反核の世論が高まった。そのような中で、原子力の平和利用を進めるために、読売グループはアメリカから原子力平和利用使節団を招聘する計画を立てた。

 (2)、アメリカの宣伝

  ①、広報文化交流局(USIS)

   ・アメリカは海外での広報宣伝活動を強化するために、海外各地に広報文化交流局(USIS)を設置していた。東京では、当時虎ノ門にあったアメリカ大使館別館にUSISが設置された。USISは、新聞や放送、映画などのメディアを通じて、アメリカの原子力平和利用計画の宣伝をすすめていった。

  ②、D.S.ワトソン

   ・本人は所属を明らかにしないが、アメリカの中枢部に通じているD.S.ワトソンという人物がいた。彼は、日本の社会は新聞に大きく影響を受けるとして、日本の世論を動かすには大きな新聞をおさえることが必要であると考えた。そこで、ワトソンは第五福竜丸事件で反米反核に傾いた日本の世論を動かすために、読売新聞社社主の正力松太郎に会うこととした。昭和28年(1953)、正力は日本初の民間テレビ局である日本テレビ放送網を開設した。この時、読売新聞の発行部数は300万部にせまろうとしていた。正力は新聞とテレビの二大メディアを手中におさめていた。

  ③、正力松太郎との会談

   ア)、意義

    ・ワトソンは、正力に会うことに成功した。その場でワトソンは、国内にエネルギー源がほとんどない日本にとって原子力の平和利用は重要であることを話した。当時日本では慢性的な電力不足の解決のために、大型ダムが次々に作られていた。しかし、建設費がしだいに高騰し、水力発電の発電量は限界に近づいていた。火力発電所もまだコストが高く、将来の石炭不足も予想されていた。産業界は新たなエネルギー源を模索していたのである。よって正力は、日本が非常に貧乏をしており、貧困の結果共産化するかもしれない、特にエネルギー源が不足しているとして、原子力に興味を示した。

   イ)、日本の原子力開発の父・正力松太郎

    ・この後、正力は原子力発電を推進するために邁進した。中曽根康弘は「正力さんは新しいものに食いつく性格を持って、日本でも自分が原子力の開拓者になりたいと思っていた。正力と一緒にやったが、原子力問題について正力は何も知らなかった。しかし、原子力は政治的に将来世界を制する大変大事なエネルギーになるという直観力は持っていた。そこで、社をあげて原子力問題に突っ込むように研究させていた。」と発言している。実際、正力の原子力理解は、原子炉からでる「死の灰」も食物の殺菌や動力機関の燃料に活用できるといった程度であった。

   ウ)、CIAの協力者・正力松太郎

    ・当時のアメリカCIAの秘密文書には、「ポダム(Podam)との関係は十分成熟したものになったので、具体的な協力申出ができるのではないかと思う」とある。このポダムとは正力松太郎のことであり、正力はCIAの協力者であった。

 (3)、正力松太郎の懐刀・柴田秀利

  ①、柴田秀利とは

   ・戦後最大の労働争議の一つである昭和21年(1946)の第二次読売争議で、GHQの担当記者だった柴田はGHQ幹部を動かして、組合側の要求を抑え、経営側を勝利に導いた。やがて、柴田は読売新聞社主・正力松太郎の懐刀として重用されるようになり、日本テレビの創設に大きくかかわった。柴田は、吉田総理大臣を中心とする政財界の上層部やGHQに持つ人脈で、アメリカとの交渉に辣腕を振るった。

  ②、ワトソン・柴田の密会

   ・当時日本テレビの重役であった柴田もまた、第五福竜丸事件の後に反米反核に傾いた日本の世論を危惧していた。やがて、ワトソンと柴田は、銀座のすし屋で密会をするようになり、柴田は「日本には毒を持って毒を制するということわざがある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対をつぶすには原子力の平和利用を大々的にうたい上げる。」と語った。

 (4)、原子力平和利用使節団の計画

  ①、切迫化する政治情勢

   ・アメリカの水爆実験から半年後の昭和29年(1954)8月23日、第五福竜丸の無線長が放射能症で死亡した。日本でのアメリカを非難する世論はさらに高まった。アメリカに対して友好的だった吉田政権は、弱体化する一方であるのに対して、社会党や共産党などの左翼勢力は、アメリカを戦争勢力と位置づけ、アメリカの核実験を非難することで勢力を増し、アメリカと結びついた保守政権に対する攻撃を強めていった。アメリカは極東の反共の基盤となる日本の政治が安定しないことを懸念して、日本の政治情勢に神経をとがらせていた。ソ連も、日ソの国交回復をはたし、日本をアメリカから引き離す好機として、日本の情勢に注目していた。

  ②、原子力平和利用使節団の計画

   ・このような政治情勢の中で、柴田はワトソンに民間使節の形をとった原子力平和利用使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民にPRしようという提案をした。ワトソンのこの案に賛成し、世界初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を作ったジェネラル・ダイナミクス社に提案した。同社の社長であるジョン・ホプキンスは、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開発を財界で主張している人物でもあった。柴田はアメリカのテレビ関係者などを通じてホプキンスと連絡を取り、平和利用使節として来日するよう正力の意向を伝えた。

  ③、読売グループの宣伝

   ・昭和30年(1955)、読売新聞は元日の朝刊にアメリカ原子力平和使節団の招聘を告げる社説を掲載した。これ以後5ヶ月にわたり原子力平和利用のキャンペーン記事がたびたび読売新聞紙上に登場することになる。日本テレビと併せて、原子力平和使節団を受け入れる世論づくりに邁進した。

5、国際管理から二国間の原子力協定へ

 (1)、意義

  ・昭和29年(1954)6月、ソ連が世界初の商業用原子炉の稼働に成功した。これに危機感を感じたアメリカは原子力の国際管理案を棚上げして、西側友好国と二国間で原子力協定を締結する政策に大転換した。

 (2)、国際管理から二国間の原子力協定へ

  ①、意義

   ・ソ連は世界初の商業用原子炉の稼働に成功した(オブニンスク原発)。そして、諸外国に対して原子力平和利用の技術援助を行う用意があることを明らかにした。この時、アメリカではまだ最初の商業用原発の建設がはじまったばかりであった。アメリカは大きな政策転換を行い、アイゼンハワー大統領は原子力の国際管理案をいったん棚上げし、西側友好国に対し、アメリカが個別に二国間で協定を結ぶという方針を打ち出した。アメリカは協定締結国に対して、濃縮ウランや原子力の技術情報を提供することになった。アメリカは濃縮ウランを外交カードとして、各国をアメリカの勢力下に置こうとしたのである。アメリカ原子力委員会は、日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行っていた。

  ②、アメリカの意図

   ・アメリカ国家安全保障会議は以下のような戦略を持っていた。海外との原子力協力について、向こう10年間に経済的に競争力のある原子力発電をすることは期待できない、しかしソ連は原子力開発を急ピッチで進めており、アメリカが冷戦においてリーダーシップを奪われる可能性がある、電力コストが高い日本は最も有力なターゲットとしてここに挙げられていた。

 (3)、原子力予算の成立

  ・昭和29年(1954)、日本政府はウラン235にちなんで2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。さらに翌年の昭和30年(1955)には、「原子力基本法」が制定された。しかし、学会には原子力に対する反発が根強く、ウラン入手の目途すら立たない状態が続いていた。アメリカからの原子力協定締結の提案は、こうした状況に突破口を開くものであった。

 (4)、二分化した日本の世論

  ①、二分化した日本の世論

   ・昭和30年(1955)1月4日、第五福竜丸事件はアメリカ政府が補償金200万ドルを日本政府へ支払うことで決着した。アメリカの法的責任はいっさい問わないことを条件とする政治決着であった。この一週間後の1月11日、日本政府にあててアメリカから濃縮ウラン受け入れの打診をする書類が届けられたが、外務省はこのことを外部に対して一切秘密にした。しかし、この申し入れは、3ヶ月後に朝日新聞のスクープによって明るみに出された。以降、日本国内の世論は受け入れの是非をめぐって二つに割れた。一週間後に開かれた日本学術会議の総会でもこの問題をめぐって議論が紛糾した。受け入れに反対する科学者達は、原子力を通じて日本がアメリカの軍事ブロックに組み込まれる可能性を指摘し、あくまで自主開発をすべきであると主張した。

  ②、核ブロックを作ったソ連

   ・昭和30年(1955)1月14日、ソ連は中国、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニアの五か国に対して原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表した。ソ連も独自に二国間協定を結び、核のブロックを作ろうとしたのである。

6、原子力平和利用使節団の来日

 (1)、原子力平和利用使節団の受け入れ準備

  ・昭和30年(1955)2月、正力松太郎は突如、富山二区から衆議院選に立候補することを表明した。正力は、保守合同による政局の安定と、原子力の平和利用の推進を二大公約に掲げた。この選挙で正力は初当選し、原子力導入に向けた大きな足掛かりを得たのである。正力はさっそく財界に働きかけて、原子力平和利用懇談会を発足させ、自ら代表世話人に就任した。経団連の石川一郎会長を筆頭に、重工業や電力業界をはじめ財界の主要メンバーが集まった。学会からも原子力の導入に積極的な科学者が集められ、平和使節団受け入れの準備が整えられていった。

 (2)、原子力平和利用使節団の来日
 
  ①、来日

   ・昭和30年(1955)5月9日、アメリカから読売新聞社が招いた原子力平和利用の民間使節、ジョン・ホプキンス、アーネスト・ローレンス、ハウスタッドが来日し、正力松太郎らと握手を交わした。ローレンスはノーベル賞を受賞した科学者であり、話題を集めた。

  ②、対政財界

   ・一行は鳩山総理大臣他、政財界の主要人物と精力的に会談を重ね、濃縮ウラン提供の前提となる日米原子力協定の早期締結を促した。この原子力平和利用使節団が、日本での世論を変え、政府をも動かす結果となった。

  ③、対国民

   ・昭和30年(1955)5月13日、国民へのPRのために、原子力平和利用大講演会が開かれた。講演会は人気を集め、会場となった日比谷公会堂の周りには長蛇の列ができた。読売新聞は二ページを割いて、この講演内容の全貌を掲載した。日本テレビは娯楽番組をはずして、この講演内容を放送し、国民を啓蒙した。こ

 (3)、博覧会

  ・昭和30年(1955)11月には東京日比谷公園で、アメリカ大使館と読売新聞が協賛する博覧会が開かれた。夢の新エネルギー原子力を見ようと押しかけた来場者は、1ヶ月で36万人。将来の夢として、原子力飛行機や原子力船、原子力列車などの模型も並べられていた。

 (4)、宣伝の効果

  ・博覧会終了後のCIA文書によると、アメリカに好感を抱く日本人が10%以上も増加し、宣伝は成功したと本国に報告された。この原子力ブームに他の新聞メディアも追随し、博覧会は日本各地で開催されるようになった。「被爆国だからこそ原子力の平和利用を」」というスローガンが国民に浸透していった。

7、濃縮ウラン受け入れと日米原子力協定

 (1)、濃縮ウラン受け入れ

  ・濃縮ウラン受け入れを検討してきた原子力利用準備調査会は昭和30年(1955)5月19日に会合を開き、受け入れを決議した。

 (2)、原子力協定

  ・第五福竜丸事件か1年3ヶ月後の昭和30年(1955)6月21日、日米原子力協定がワシントンで仮調印された。アメリカは1958年までに、39ヵ国と原子力協定を結び、ソ連に対抗していった。協定により核物質の軍事転用は禁止された。これは各国が米ソの核兵器ブロックの中に組み込まれていくことを意味していた。

 (3)、原子力担当大臣へ

  ・正力は原子力担当大臣として第三次鳩山内閣に入閣した。

8、国際原子力機関(IAEA)が発足

 ・昭和32年(1957)、Atoms for Peace演説から4年後、国際原子力機関(IAEA)が発足した。IAEAが直面したのは、平和利用をうたった核兵器開発であった。IAEAは大国の核保有を認めたまま、核査察でも課題を抱えている。

9、日本の原子力開発

 (1)、初めての原子力発電に成功する

  ・日本原子力研究所(現国立研究開発法人日本原子力研究開発機構)などの研究機関や、9電力会社や電源開発(株)、重電機メーカーなどの共同出資によって日本原子力発電(株)が設立された。そして、昭和38年(1963)10月26日に、茨城県東海村の日本原子力研究所が、アメリカから導入した沸騰水型炉(BWR)である動力試験炉(JPDR)による初めての発電に成功した。

 (2)、原子力発電所の営業

  ・昭和41年(1966)、茨城県東海村で、日本原子力発電(株)がイギリスから炭酸ガス冷却炉を導入し、東海発電所で日本初の商業用の原子力発電所として営業運転を開始した。日本で原子力による電力の供給がはじまったのである。原子力行政ははこの後、国策に基づき民間の電力会社が原発を運営する(国策民営)という形で進められ、次々と原子力発電所が建設されてゆき、日本の電源の3割を満たすほどに原子力発電の利用は拡大されていった。

10、原子力発電所の建設ラッシュ

 (1)、意義

  ・昭和48年(1973)、原油価格が4倍に跳ね上がったオイルショックが起こった。資源小国の日本を大きく揺るがし、原子力が注目を集めた。昭和47年(1972)に総理大臣となった田中角栄は、原子力発電を推進するために、電源三法を成立させた。これにより、1970年代に原発の建設ラッシュが起きた。田中角栄のお膝者である新潟県柏崎刈羽地域でも総工費2兆5710億円で柏崎刈羽原発が建設された。

 (2)、電源三法の仕組み

  ①、意義

   ・電源三法とは、まず発電量に応じて電力会社に課税し、その課税分は利用者の電力料金から徴収され、その課税額を特別会計を作りプールし、原発立地の自治体などで使われる制度である。この電源三法により、柏崎刈羽原発を持つ柏崎市には昭和53年(1978)から約600億円が交付され、さまざまな箱物建設にこの交付金があてられた。「国策民営」で進められた原子力発電所の建設、電源三法交付金は、原子力という国策に協力した見返りという交付金の仕組みを固定化するものであった。

  ②、批判意見

   ・1960年代末以降は原発の新規立地が極めて困難となった。それを何とか打開をして石油危機を踏まえたエネルギー転換をし、その中核として原子力発電所をつくらせようとそういう狙いで電源三法が導入された。つまり、なかなか原発を建設する場所が確保できない中、お金で地元の同意を得る手段として使われたのが電源三法である。

11、原発の固定化

 (1)、原発の増設

  ・原発の建設が進むのは、電源三法だけではなく、税制上の仕組みもあった。例えば、柏崎市の原発の財源を見るとピークは平成7年(1995)で、原発関連の固定資産税は平成7年(1995)の約120億からその後は減少の一途をたどり、平成23年(2011)では約30億円となった。そこで減った税収を補うために、原発敷地内にさらに原発を増設するようになった。新規立地よりも反対運動などのハードルが格段に低い。こうして柏崎刈羽原発の建設はどんどん進み、1997年(1995)に7号機が完成し、820万キロワットの発電量で新潟から首都圏に送電する、世界最大の発電量を誇る原発となった。

 (2)、原発の固定化

  ・原発を一度建設した自治体が増設することは一種の麻薬であり、やがて自治体側がまた原発を作ってくださいとお願いするようになっていった。オイルショックの1973年以降、原発の新しい建設地は柏崎刈羽、川内、泊、志賀、東通の五か所にとどまったが、増設は28基にまで膨らんだ。こうして日本は、アメリカが昭和54年(1979)のスリーマイル原発事故以来新たな原発を建設していないのに対して、先進国では唯一、年間1.5基くらいのペースで着々と原発を作り続け、54基の原発を抱える世界第三位の原発大国となった。

12、中曽根康弘談

 (1)、意義

  ・戦後一貫して原発を推進してきた中曽根元総理は、インタビューで以下のように語った。

 (2)、中曽根康弘談

  ①、なぜ日本は原子力導入に動いたのか

   ・中曽根は「日本のエネルギー問題である。私は科学技術に特に関心を持っていて、原子力の話や宇宙開発の話を当時聞いていた。しかし、「危険性がある、放射能がある」そう初めて聞いたのは昭和20年代であった」とし、「資源小国である日本が原子力に乗り遅れたら四等国家になると危機感を抱いた」と語った。

  ②、原子力行政の問題点は

   ・中曽根は、「原子力の恩恵に浴して恩恵のまま乗りすぎて、危険性や配慮に対する点が少し薄くなってきていると思う」とした。管総理のエネルギー政策の転換については、「修正路線を作っているということは私はよいと思います。しかし、原発を廃止するというのは日本の国力が止まってしまう。そういう意味では行き過ぎだと思う」とした。

関連記事
スポンサーサイト

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック